人知れず人類の存亡を賭けた戦いがあった、その日の夕刻。
戦いの地、第三新東京市を一望に見渡せる郊外の高台に、一人の男がいた。
柵に両腕を絡ませ、ただ淡々と飽きる事無く、半ば近く廃墟となった街を眺めている。
つい先程まで、市全域と、その近隣に発令されていた緊急避難警報が解除された為か、街にはちらほらと人影が見え初めている。
瓦礫を漁り、残された物で何とか今日を生き延びようと奮起する者。
自身の財産の安全を確認するや、自分には関係ないと、早々と家路につく者。
失われたモノに呆然とする者。
様々だ。
彼らの昨日までの日常は、『戦争』という名の、己の力では決して及ばぬ巨大な暴力に巻き込まれ、蹂躙、破壊された。
戦う術、守る術を持たぬ人間はただただ脆弱で、『運命に翻弄される道化』の他に纏う衣を持たない。
その失われたモノに対する悲しみは、奪ったモノに対する怒りは何処へ向くのだろうか・・・そして、之からどうするのか?
無論、こんな危険な街はさっさと離れてしまいたいだろう。
が、この街に住む人間の大部分は皆、多かれ少なかれ何らかの形でネルフと関係がある。
そんな人間は、簡単に離れる事が許されない。
・・何時も泣くのは下の人間だ・・・・・
癖の強い長い髪が独白と共に寂しげな風に流され、僅かに揺れた。
僅かに蒼の入った二つの黒い目は、人々の様々な思いの交錯する瓦礫の街を焼付けて離さない。
普段はふてぶてしく歪んでいる口元も今は真一文字に紡がれ、その引き締まった長身も、広い肩幅も、今は何処となく小さく見える。
力無く垂れ下がった右手の人差し指と中指の間には、二度吸われる事無く燃え尽きたタバコ。
カッ・・・・・カッ・・・・カッ・・・・カッ・・・カッ・・・
彼の仕事柄鍛えられた、彼の鋭敏な聴覚が一つの足音を拾う。底の硬い革靴がコンクリートを叩く音だ。誰かが登って来るのだろう。
・・・その『誰か』も又、見当は付いている。聴き慣れた足音だと・・・
夕日に赤く染まった都市を眺めながら、男はそんな思考を巡らせていた。
「レオン」
「はいよ」
丸まった背中にかけられる声。ここ十年程、彼にとっては馴染みの深い声。
気だるげにゆっくりと反転し、柵に背中を預け体重を掛ける。
じゃ
地面を僅かに擦る音と共に、歩み寄ってきた男は隣りに少し離れて立ち止まった。
夕日を背にする男の顔は見えない。
「・・・あの方々は・・・行ってしまわれたか・・・?」
「・・・・・・ええ・・・」
レオンは独白にも似た問い掛けに気だるげに応え、ゆっくりと目を開く。
背後にある街と自分とを・・・まるで血で濡らすかの様に真っ赤に染め上げている夕日が視界に飛び込んで来た。
目を細めながら、懐からタバコと安物のライターを取り出し、火を付ける。
ゆらりゆらりと立ち昇る、一本の白い筋をぼんやりと眺め、眼だけ動かして隣りの男を盗み見た。
男の名は葛城ハヤト。
15年程前、とある調査隊の隊長をしていた事もある、元学者。
長身で痩せ気味だが体格はしっかりとしている。見た目、30代半ばといった所だ。
今はレオンから僅かな距離をとって、街を見つづけている。
纏う雰囲気はどことなく、先のレオンと似通っていた。
「レオン」
「・・・・・・はい?」
考え事をしている最中に唐突に声をかけられた為か、何処か間の抜けた返事を返す事になる。
「次の仕事だ」
「何処へ?」
「シベリアだ」
「はぁ?」
更に間の抜けた返事が口から洩れた。ぽとりとタバコが地面に落ちる。
レオンはどさりと盛大に・・かつ、だらしなく落下防止の柵にもたれ、首だけを気だるげにハヤトに向る。
「・・・何時発つんで?」
「三日後だ」
「・・・ど〜してまた・・・んなへんぴな所へ?」
「実験場が見つかった・・・第三種だ」
その言葉にレオンの片眉がぴくりと挙がる。だらしなく歪んでいた口が一瞬・・・ほんの一瞬、真一文字に結ばれた。そしてその目にも・・・僅かに真剣な色が宿る。
「寒いのヤ〜なんすけど・・・」
「我慢しろ」
緊張感のまるでない、だらけきった反論をぴしゃりと遮る。
「既にサンダースが現地入りしている」
「・・・ジェフリーねぇ・・・・・・姉さんは?」
「別件だ」
「・・・ヤローばっかっすか・・・」
今言われた男の顔が浮かんだのか、更にやる気は急下降。
「子供を送る訳にはいかん」
「そりゃそうですけどねぇ・・・」
「汚れ役は大人の仕事だ」
・・・はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ・・・・・・
地獄の亡者が吐くような・・・恐ろしく深く重い溜息を吐く。
死刑執行を前にした罪人の如く項垂れ、やる気なさげに手でパタパタと、極々控えめな了承の意を表した。
全く、これっぽっちも、力一杯気乗りしない態度は相変わらず。
「ところで・・・セーラ嬢ちゃんはどうしたんで?」
ふと、気がついた事を口にする。今回、少女はハヤトの護衛をしていたはずだ。
自分達より『戦闘向き』な力と、それを十二分に操る技量を併せ持つ、己の半分も歳を重ねていないあどけない少女。
「車の中で寝ている」
「この事は・・・」
一変、笑ってない目で慎重に伺う。
「いや、知らない・・・知っているのは・・・大人だけだ」
「ガキどもの事情もごちゃごちゃしてっからなぁ・・・」
ハヤトの返答に苦笑する。どこか安堵する自分を感じながら。
「・・・俺等が出て行った後の事は?」
「アイツに任せてある。
・・・一度戻った後、来週の頭にでも、ここに移るそうだ」
「左様で・・・ま、ヤな仕事も・・ガキどもの面倒みるよりゃあ、ましか・・・・」
「違いない」
自分達の不器用さを思い出したのか、男達は苦笑し合った。
「よっと」
足元で燻り続けていたタバコを拾い、ぴんっ、指で軽く空に跳ね上げた。
ぐにゃり
くるりくるりと回転するタバコの周囲の景色が歪み・・ぱん!。小さな音を伴って爆ぜ消える。
「さて・・・と、行きますか」
音もなく歩を進める・・・レオンを置いてさっさと高台を降り始めているハヤトを追う為に。
・
・
・
バタン、ぶるると、平凡なエンジンの音が小さく高台に木霊する。
既に夕日は沈みかけ、遠くではちらほらと灯りが点き始めている。
そして・・・
発令解除の煽りを食らって、第三新東京に一度に大量に出入りする車の群れ。
その中に混じり、彼らは何処かへ消えていった。
NEON GENESIS EVANGERION
ANOTHR ONE
〜ヒトが人である為に〜
第2章
人間の時
「アンタ、誰よ」
「アンタこそ誰よ」
多量の怒気とイラツキ、そして若干の焦りを含んだアスカの低い声が漆黒の空間を震わせた。
山彦のように、目の前の少女が同じ質問を返してくる。その声はアスカと全く”同質”の声だったが、その内には怒りや焦りなどの”負”の感情は篭められていなかった。
「アタシはアナタ、惣流アスカ・ラングレーよ?」
「違う!、アタシが惣流アスカ・ラングレーよ!!」
ネルフの隣人達が残務処理に忙殺されている最中、惣流アスカ・ラングレーは闇の中で目を覚ました。
最後に見たのは己を包む白き閃光。
エヴァを焼き尽くさんばかりのフィードバック・・・それはとても熱くて、苦しくて、はっきりと記憶に残っていない。
次に気が付いた時には、闇の中。もう一人の『アタシ』と向き合っていた。
そして今も尚、答の出ない奇妙な押し問答を延々と繰り返している。
「じゃあ・・・エヴァの精ってのはどう?」
「エヴァの精?」
「そ、アナタの真っ赤なエヴァの精」
「アンタ、嘗めてんの」
「嘗めてなんかないわよ?、だって本当の事ですもの、知ってる?、エヴァにはね、心があるのよ?」
「馬鹿馬鹿しい」
・・・目の前でホホエム『惣流アスカ・ラングレー』
鏡に映したような全く同じ外見で、しきりにアスカをからかっている。
そんな態度に触発された訳でもないのに、自分でも不思議に思うほどに気が気でなくなり、気がついた時は食って掛かっていた。
只一言、之は夢だとかたずければ済む筈なのに。
「ま、今は別にそんな事どうだっていいでしょ?、本物と偽者なんて、大した問題じゃないんだし」
睨みつけ、険悪な雰囲気を発散しまくっているアスカを正面に捉えつつ、目を瞑り、形の良い口元を皮肉げに歪めてもう一人の『アスカ』が云った。
「そんな事よりも、早く目を覚ましたらどう?、外は大変な事になってるかも知れないわよ?、もしかしたら・・・世界が終わっていたり・・・ねぇ?」
「覚ませるんならさっさと覚ましてるわよ!、なんで!?、どうして目が覚めないのよ!?」
「それは・・・・・・何故かしらねぇ?」
目の前の『アスカ』は意地悪な微笑みを浮かべたまま、クスクスと笑う。
「アンタ・・・・・・」
沸々と、今までとは比にならない怒りが湧き上がる。『アスカ』の態度は自分が元凶だといっているようなものだから。
「ゴメンゴメン・・・言っとくけど、アタシじゃないわよ?」
意地悪な笑みの残滓を顔に残したまま少女の疑念に答えする。
「だったら何で・・・・・・」
「・・・・・分からない?本当に?」
少女は尚、食って掛かろうとする。
対し、もう一人の『アスカ』の顔からは笑みが消え、僅かな悲しみが表に出た。
彼女の青い瞳からは、之までのからかいを多分に含んだ好奇の視線に代わり、真摯な光が覗いている。
その青瞳に映る自分。
切羽詰って、焦り、激昂する自分は醜かった。
ちくりと、何かが疼く。
それが何かを理解できぬまま・・・アオははアスカを呑みこみ、嘘の仮面を侵食してゆく・・・・・・。
「現実を拒絶し、この世界に逃げ込んだのはアナタ自身よ?
・・・アナタ・・・本当に、戻りたい?、目を覚ましたい?」
「・・・どういう意味よ」
『アスカ』の瞳が少女を捕えて放さない。
少女は親に叱られた子供のような、そんな小さな声で反論した。
「分からない?、あんな恐い目に・・・死にそうになって・・・それでもまだ、弐号機に乗りたい?」
「それは・・・・・・」
『アタシは選ばれた子供だから』、『死ぬ事なんて恐くない』、『負けられない』そんな言葉が咄嗟に浮かんでくる。
だが、それ等を口に乗せる事は出来なかった。
少女の苦悩が深まるにつれ、『アスカ』の悲しみも又、益々深くなっていく・・・・・・。
「アナタは使徒に負けたの・・・」
「それはっ!」
「使徒に負けたと言う事実は・・・確実にアナタの評価を、価値を下げるわ、違う?」
「・・・・・・」
何も言い返せない。
俯き、何かに耐えるように力いっぱい両の拳を握り締め、歯を食いしばる。
「ま、それも世界が残っていればの話なんだけどね・・・・・・」
『アスカ』の言葉が空間を虚ろに震わせた。
ぼう・・・ぼう・・ぼう・ぼう・・・ぼう・・・ぼう・・・・・・・・
闇の中、一人佇むの男を取り囲む様に浮かび上がる、12の影。
影の出現と共に、辺りを埋め尽くす、暗く濁った漆黒の気配。
その影達の中央の・・・一際存在感のある・・・最も闇い気配を纏っているモノが声を発する。
「これより審問を執り行う」
この場の闇を凝縮させたような、岩のような声。
その声を皮切りに、他の影達もまた、銘々に言葉を紡ぎ出した。
「我々は15年前、始まりの鐘がなった時から、今日この日の為に、巨額の投資をしてきた」
「それ全ては、行き詰まった人類の殻を破る為」
「新たな、より高位の存在へと至る為」
「その我々に架せられた試練である、15の使徒」
「二つ目の鐘は鳴り始めた、しかしその代償は余りにも大きい」
「君に特務機関を組織させ、十分な資金と権限を与えたのは、このような事態を回避するための筈だよ」
「このたびの醜態、君はどう申し開きするつもりかね?」
影達の声は老獪な悪魔を思わせた。
その多分に毒を含んだ問い掛けが、影達に取り囲まれたゲンドウに突き刺さる。
神経を逆撫でする事に長けた狡猾な老人達の囁き。
彼自身を包む・・・苛烈なまでの圧迫感。
そして、闇。
その中心に立つ者誰しもに、焦燥と恐怖を与えるであろう。
ゲンドウはゆっくりと、己に向けられた問に応えた。
「恐れながら・・・先の第3使徒戦において、我々の対応に落ち度が合ったと・・・?」
何時も通りに・・・問題は無い・・・そう、云わんが如く。
着色レンズ越しに、影達を凝視しつつ。
くいと、指先でフレームを僅かに上げる。
ぎらり
闇の中、薄い光源に反射して、サングラスは不気味な光を放った。
「先程、十分な資金と申されましたが・・・
今現在・・・いえ、第3使徒・・・サキエル戦直前でさえ、第三新東京・・・ネルフの稼働率は六割にも届いておりませんでした。
不十分な援護設備と、兵器開発の遅延・・・これを補えぬようではとても十分とは・・・」
「報告は受けている。記録も見させてもらった。
・・・確かに、現有戦力であれ以上の対応は酷かも知れぬ」
「しかし、それをどうにかするのが彼らの仕事だろう?」
「だが・・・あの第3使徒の・・・暴走状態にあった弐号機と互角に渡り合った力は我々のシナリオの外の出来事だ・・・死海文書にもそのような記述はない」
「今後の使徒も死海文書を当てにし過ぎるのは危険かも知れぬ」
「そしてあの結末」
「事態は完全に我等の手から離れている」
影達は内々で言葉を交わし合う。
「それについては、現在、技術部、諜報部の総力をもって解析、調査しています」
影達の討論の輪に、するりと滑りこむゲンドウの声。
「しかしながら、初戦で破壊された兵装ビルの修復。使徒に対し、有効かつ効果的な兵器の開発。零号機の凍結解除と再調整・・・
同時に行うべき事が多々あり、その為には人員と資金が・・・」
淡々と、事実だけを述べる。
「足りんと言うのか」
「はい・・・人はこちらで何とかなるものの、資金面はどうしても・・・」
・・・・・・・・・・・・
影達の幾つかが不満の意を表わした。
そのような余裕は無いと、それに同意するものが表れる。
今は使徒殲滅が他の何より優先すると、異を唱えるものもでる。
暫しの間、場は荒れた。そして・・・
「そこまでだ」
始まりの言葉より沈黙を守っていた、一際存在感のある影が、その喧騒を打ち破った。
「碇よ、シナリオの修正、これが現在における急務である。予算については、一考しよう」
「ありがとうございます・・・全ては、ゼーレのシナリオ通りに」
恭しく一礼するゲンドウ。
「・・・本日はこれにて閉会とする」
ブン・・・・・・・・・・・・
声と共に次々に消える影・・・ホログラフ・・・
ゲンドウは影が消えた後も、一人佇んでいた。
「碇・・・どうだった?審問会は?」
暗闇に声が響き、ぶん、という音と共に、ゆっくりと場が明るくなる。
明らかになる場・・・即ち、司令執務室。
天井に描かれた生命の樹が僅かに発光し、部屋を薄暗く照らしている。
唯一つの扉から、冬月がいつもの好々爺の笑みを浮かべたままゲンドウに歩み寄って来る。
「問題ない・・・必要な予算は取り付けた。
老人達は随分と慌てていたよ、大した嫌味も言わずに予算を通したのだからな」
「アレを見て慌てるなという方が無理な話だよ・・・老人達にはいい薬だ。で、どうするつもりだ?」
冬月は昼間の出来事を思い出したのか、苦い口調で返す。
「今まで通りだ、それでいい」
その言葉に、冬月は呆れた。
資金繰りに、暗躍に、西へ東へ忙しく、殆ど本部にいない極道総指令に替わって、ネルフ本部全体の管理を担う、冬月副司令。
彼は今のネルフの状況を最もよく理解している。それこそ悲しいほどに。
つまり・・・
・・・今は使徒襲来の緊急時なので、時間はお世辞にも多くはない・・・と云うことが一つ。
・・・ネルフは完全な非公開組織だ。この街では暗黙の了解となっているが、基本的にエヴァの存在ですら機密扱いである。それと、当たり前なのだが、エヴァ関係の仕事はネルフの人間にしか任せられない。
それを担っている赤木リツコ率いる技術部の面々は非常に優秀だが、流石に今回は仕事の量が多すぎる・・・と云うことでもう一つ。
詰まる所、幾ら十分な資金があったとしても、事を成すには相応の時間と人手がいるのだ。
現在のネルフはかなり重度の時間不足の人手不足・・・・・・。結果、確実に人間・・・特に、技術部に負担を強いるであろう。
組織にかかる負荷は巡り巡って悪徳司令ではなく、温厚な・・・言い換えれば、愚痴りやすい副司令に回ってくる。
老いて尚、優秀かつ高回転な冬月の脳細胞は一瞬でそこまで弾き出した。
「いいものか・・・人が全く足らんぞ?・・・上は金さえあれば外注できるが・・・」
自分の仕事量が増えるか否かの瀬戸際である。自然と声に熱が篭る。
「ゼーレの補充を受けるのは危険すぎる・・・」
しかしゲンドウは冬月の抗議をぴしゃりと遮った。
「しかし・・・それでは大幅に期間が伸びるが・・・」
「スパイを大量に送り込まれるよりは余程良い」
「・・・また赤木君に押し付けるのか・・・」
ふぅ・・・と近い将来、確実に自分に降りかかるであろう、皺寄せを思って溜息をつき、次の問題を持ちかける。
「碇、作戦部から要請がきているぞ・・・マルドゥック機関に封印中の初号機を起動可能な、サードチルドレンの選出を急ぐよう・・・な。
確かに、現状では戦力不足は否定できん、先の・・・サキエルクラスを相手にするには、稼動中の弐号機だけでは荷が勝ちすぎている。
・・・みすみす戦力を遊ばせておく余裕はない」
淡々と述べ上げる冬月、表面上穏やかだが、その目は決して笑っていない。
「分かっている、それについては零号機を動かせば事足りる筈だ・・・サードの選出は、ない。
・・・それよりも、問題は最後のアレだ・・・新たな使徒か・・・それとも全く別の存在か・・・」
それっきり、思考の世界に没入するゲンドウ。
「どちらにせよ、今は情報が少なすぎる・・・赤木君の解析待ちだよ」
「ああ・・・」
冬月の応えに生返事を返す。
「とりあえず・・・零号機の凍結解除と兵器開発を急ぐよう、葛城君と赤木君に伝えておくよ。
・・・マルドゥックの件も・・・伝えるだけ伝えておこう・・・『選別中』とな?」
「ああ・・・」
相変わらずの生返事に溜息が洩れる
ピッ
唐突に、電源すら入っていなかったゲンドウのデスクの端末に明かりが灯った。
「これは・・・」
カリカリと何かを読み込む音が耳につく。
暫しの後、端末のディスプレイに映し出される数行の文字の羅列。
ゲンドウの両目が驚愕に大きく見開かれた。
「碇?」
その目の前の極めて珍しい光景に、冬月の口から疑問が洩れる。
「いや・・・何でも無い・・・」
PiPiPiPiPiPiPiPiPiPi・・・・・・
デスク上の電話が鳴る。
それに反応しないゲンドウに溜息を付き、冬月は受話器をとる。
「冬月だ・・・ああ・・・分かった・・・」
がちゃり
「碇・・・とり合えず結果が出たそうだ。赤木君がこれから来ると」
「・・・分かった」
同時刻、場所は作戦部長の執務室。
かりかり・・・ぺったん・・・かりかりかり・・・・・・・ぺったん・・・
部屋の主は死んだ魚のような目で、黙々と慣れぬデスクワークをこなしていた。
戦闘終了から既に6時間が経った。
彼等、彼女等にとって余りにも不可解な、その結末。
今はその衝撃も特A級機密事項とされ、実際のそれを目の当たりにしていた、ごく少数の発令所メンバーの胸の内にしまわれている。
彼らの主観は、あの出来事を、あの赤い瞳の『モノ』達をどう捉えたのだろうか?
彼らは・・・彼らも『使徒』なのだろうか?
それとも・・・
使徒を超えた脅威であろうか?
使徒を超えた存在であろうか?
・・・・・・・・・
人類の、我々の敵なのだろうか?
私達が戦わなければならないのか?
疑念は尽きない。
湧き上がる不安感。
渦巻く焦り。
それは、事実が解明され、それを理解するまで、彼らの心身を苛むだろう。
『使徒を超えた存在』
その先にある・・・『神』・・・という単語がミサトの脳裏にちらついた。
少なくとも、彼女を人間と思うことは、ミサトには出来なかった。
彼女独特の『嗅覚』とも呼べる。作戦部長としての鋭い直感がその推測を肯定したがっている。
『使徒』イコール『敵』
これが絶対だと信じてきた。
使徒は人間なのか?
それは、葛城ミサトを15年間支えて来たモノを否定する、問。
旧友に尋ねれば、何か返ってくるかもしれないが・・・・・・止めた。
怖かったから。
肯定されるのが。
その鮮血の赤の瞳が脳裏に思い出された。
『彼女』の顔立ちが、くるぶしまである長く美しい銀髪が、無機質な美貌が形になってゆく。
・・・あれ?、どこかで・・・
あの時、誰かが呟いた言葉。
それは唐突に繋がり、意味を持った。
・・・そうだ・・・あの人・・・レイに似ていたんだ・・・・・・・
考えれば考えるほどに・・・
・・・やめよ・・・ぐだぐだと・・考えるのは・・・・・・
じっとしていると、陰惨とした思考のループに陥りそうだった。
実際、答の出よう筈も無い問を延々と考えていた事に気が付く。
暫しの間、理不尽な事実を忘れようと、何かに没頭していようと、ミサトは真面目に仕事に向かう・・・・・・筈だった。
気を引き締め、半ば何かに憑かれたような、厳しい表情のまま、彼女は作戦部長に割り当てられた執務室に入り・・・
そして、凍りついた。
ミサトのデスク上・・・いや、執務室内は今、『大量』という言葉すら生ぬるい、膨大な書類の『世界』を形成していた。
まるで『塔』のように高く積まれた書類乱立し、一部崩れたそれが床に『海』を創っている。
それを視界に入れた瞬間、ミサトは回れ右して帰ろうとしたが、同伴していた補佐のメガネ君に泣きつかれ、今に至る。
が、当然もとあった書類の半分はメガネ君に回し済みだ。今ごろ彼は本来の仕事と並行して彼女の仕事もしているだろう・・・多分、泣きながら。
その涙は敬愛する上司に、自分は頼られているのだ、という事に歓喜しての嬉し涙・・・な訳はない。
可哀想に・・・・・・
さて、書類の内わけは、大部分が苦情と請求書である。つまり、「あんたら壊し過ぎだっての、ちったあ修理する俺達の事を考えてくれや」ということだ。
あの戦闘の映像記録を配布して、やかましい口を黙らしてやりたいところだが、残念な事にエヴァは元より、その戦闘内容も重要な機密事項だ。
幾らネルフ職員と云えど、ほいほいと見れる物、見せられる物ではない。
戦闘記録を閲覧するだけならば、職員なら誰でも可能だが、その内容は
―○月×日、何時何分第3使徒襲来、エヴァンゲリオン弐号機の暴走により殲滅―
と、使徒が出た、見た、斃した的な、記録と言うのもおこがましいような代物しか閲覧できない。
特に今回の内容は一部が改竄、抹消されており、ネルフ内でさえ真実を知るものは極々一部だけである。
より詳しいものを見るためにはそれなりの階級が求められる。
つまり
現在の疲弊したミサト的思考回路をささくれ立たせる事間違い無しの・・・そんな内容が全く何の遠慮も無くずらずらぐちぐちと書かれた書類を、延々長々と読みつづけるのである。
本当の事を云う訳にはいかないものだから、彼女の心労は押して知るべし。
心の内で『何も知らないくせに』と呟くにとどめ、『機密だから』と無理矢理自分を納得させる。
今、ミサトはなけなしの忍耐を振り絞り・・絞り上げ・・最後の一滴まで出し尽くし、何とかブチ切れようとする自分を自制しつつ仕事をこなしている。
もし旧友がこの場に居たら、近年まれに見る自制心を見せるミサトを一瞥し、きっとこうのたまうであろう。
「奇蹟ね」
実に安い奇蹟である。
処理済の書類は廃品回収よろしく一まとめにされ、部屋の隅に積まれていた。
彼女のやや焦点の合わない瞳は書類を上から下へ、左から右へとゆっくりと舐め、左手は機械的に書類に判を押しながら、右手で報告書を書いている。
かりかりかり・・・ぺったんぺったん・・・かりかりかり・・・かり・・・
既にミサト主観による『人の気持ちを知らぬ輩』に対する向け様の無い怒り・・・と云うか、八つ当たり気味思考なはなりを潜め、その変わりに気味の悪い、無言のオーラを放っている。
精神的疲労が限界を通り越し、無我の境地にまで達してしまったのだろう。
戦闘終了から6時間。
ようやく彼女は全工程の5分の1を消化しつつあった。
かりかりぺったん
「報告します」
やや憔悴した顔を手元の資料に落とし、赤木リツコ博士は怜悧な声を発した。
綺麗に染め上げられた筈の金髪は、どことなく色褪せて見える。
「使徒消滅に関係していると思われる女性の件ですが・・・」
・・・『本当に話してよいものか』、そんな迷いの表れか、赤木リツコ博士は珍しく言葉を区切った。
「単刀直入に申し上げると・・『彼女』と第3使徒は同一の個体です」
やや苦いものの混じった、その言葉。
「どう言う事だね」
それに応える・・・意味を図りかねたという、冬月副司令の問。
「第3使徒と『彼女』は全く同じコアを内包していると云う事です・・・。
パターン計測器の解析結果より・・・両者が発する波長パターン青は、全く同一の波形を描いていました」
理論的にあり得ない事ですが・・・と付け加える赤木博士。
「・・・マギの見解は?」
「・・・・・・全会一致で賛成しています」
念を押すゲンドウの問にも、歯切れ悪く反す。
「ふむ・・・たしかサキエル・・・第3使徒と、弐号機に、何か呟いていた筈だが、あれは?」
「声帯の動きを照合したところ、共に一言。第3使徒には『カエレ』、弐号機には『シズマレ』と・・・。
その直後、第3使徒のATフィールドに反転が観測されています」
「・・・使徒は自らLCL化したと云うのかね?」
「はい」
「・・・弐号機は『彼女』に命令されて暴走を止めたのかね?」
「恐らくは・・・」
あの時、弐号機に取り付けられていた計測機器は軒並み全滅だった。その為、暴走後の弐号機自身のデータは非常にあやふやなものになっていた。
使徒の閃光をモロに食らったのが痛かったと、後の赤木博士は答える。
「ふむ・・・やはり、現状で確かな事はない・・・か・・・」
「はい・・・しかし、『彼女』に明確な自我がある事は明らかです。現段階では『彼女』を使徒と断言するのは危険かと・・・
『彼女』を知る為には、先ず『使徒』とは何なのかを知る必要があります・・・」
「それは難しいよ・・・老人達でさえ知っているのか怪しいのだからな」
「・・・老人達には文書記述外の使徒と報告しておく」
「まあ、そんなとこだろうな」
それが妥当だろうと頷く冬月。
「・・・・・・碇司令、もう一つ、重要な報告が」
「何かね?」
物言わぬゲンドウの替わりに冬月が応じる。
「恐らく、『彼女』の出所と思われますが・・・」
若干の沈黙の後、赤木博士はゆっくりと口を開いた。
「・・・・・・・・地下からダミーが2体・・・消えていました」
沈黙の後、沈黙。
「・・・他のダミーは?」
「健在です。何ら変化、影響は見受けられません」
「そうか・・・」
本当に僅かな安堵の混ざった呟きを吐き、黙するゲンドウ。
「マギの記録はどうしたのだね?警備システムは?」
冬月が問う。
「・・・マギに一時期無効化された形跡がありました・・・ただ、それを発見する機能も同時に奪われていたため、発見が遅れました」
恐ろしいまでに冷静な声と、能面のように無表情な顔の赤木博士。
だが、その書類をもつ手は僅かに震え、そこに静かに篭められた力は紙に皺をつくっている。
さぞや屈辱だろうな・・・冬月は思う。
マギは彼女の母ナオコが遺した遺作ひとつ、世界最高の性能を誇る・・・世界初の第七世代、人格移植有機コンピュータである。
現在、支部の幾つかにも設置されてはいるものの何処も一基だけであり、三機全て設置され、三系統の合議制による本領を発揮しているのは本部だけである。
無論、単体でもリツコ自身が手を加えていることもあり、その性能は支部のそれを上回るだろう。
それが、突破されたのだ。
科学者として尊敬する母を、手間暇愛情込めて育て上げた自慢の娘を、そして自身のプライドをズタズタにされたといってもいい・・・
冷たい仮面の内に押し込められた激情は如何程のものか・・・
「それは何時頃だね?」
「第三使徒戦開始直後から終了までの約50分です」
「・・・使徒戦にマギの処理がとられた時を狙われたのか・・・」
「内部の手引きの可能性は?」
ゲンドウが口を挟む。
「それに関係する技能をもった職員の動向はチェック済みですが、それは無いかと・・・
しかし50分足らずで深層部まで行けるものではありません・・・まして往復など・・・」
「碇・・・これは・・・」
「ああ・・恐らく、間違いない」
「・・・何か知っておられるので?」
「君になら話していいだろう・・・『亡霊』・・・しっておるかね」
彼女を敬愛する童顔の後輩の言葉ではないが、この科学万能の時代に亡霊ときた。
それを持ち出したのが冬月副司令で無ければ『馬鹿馬鹿しい』と切って捨てるところだが・・・それが指すのは何かと計る。
「?・・・組織名ですか?・・・いえ」
「組織ではないよ・・・15年程前・・・セカンドインパクト直後からゼーレ関係の研究施設を襲撃し続けているテロリスト集団だよ」
「ゼーレを・・・ですか?」
リツコは信じられない、そういった類のものが篭められた呟きを返す。
ゼーレ・・・世界でも極一部の人間にのみ知られる、便宜上、国連直属であるネルフの真の上位組織であり、人類の最先端・・・というか、明らかなオーバーテクノロジーを保有しているネルフのボスに相応しく、一部の技術、知識レベルはネルフのそれを凌駕していると云ってよかった。
無論、その直轄地である実験場、研究所も並大抵の警備ではない筈だ。
設備、武器、兵士の錬度、その全てにおいて。
「ああ・・・目撃例は無く、本当に存在するのかすら分からない・・・だが、すでに幾つかの施設は確実に破壊され、データも全て破棄されている。
ゼーレも躍起になって対策を施そうとしてはいるが、まだ効果はあがっていない筈だよ。
その御陰か、ゼーレの中にも本当にセカンドインパクトの亡霊だと思っている連中もいるらしい・・・」
「彼・・・彼らの思想、目的は?」
「分からんよ・・・全く、何も残さんのだからな?、名前すら分かっていないのだからゼーレは呼んでいるんだよ・・『亡霊』とね?
マギを一時的とはいえ無効化できるような技術を持った組織はゼーレ以外には存在せんのだから、犯人はそのゼーレを手玉にとっている連中しかもう残らんだろう?」
苦笑する冬月。
「しかし・・・だとすると、彼らは知っていたのですか?、プラントの存在を!?
だとしたら・・・『彼女』も彼らの一員なのですか?、それでは彼らは・・・・・・ヒトでは・・ないのですか?」
自分達の実質上のボスであるゼーレにすら秘匿していた機密を知られていたとあっては、如何に赤木リツコ博士と云えども動揺を隠せない。
「かもしれんな・・・ゼーレもネルフも世界の技術水準の遥か先を行っている・・・そのシステムを手玉にとるなど、人間では無理かもしれんな・・・
・・・だとすると、諜報部もこの分では成果は期待できんか・・・」
「何故そこまで気楽でいられるのですか!?、最高機密を知られているというのに!?」
普段と全く替わらない、良く言えば温厚、悪く言えばまるで危機感の無い冬月の口調に苛立ちを覚えたのか、リツコの語気も鋭くなる。
しかし、それに対する冬月の応えはあくまで素っ気無かった。
「・・・プラントに対する破壊工作がされていないのならば・・・今は恐らく、彼らにネルフへの敵対意思は無いのだろう。
他のダミーに手を出していない事からも、恐らく間違いはない・・・我々の計画さえ知られていなければ、それでいい」
「ああ・・・今は、な・・・・・・報告は分かった・・・下がりたまえ、赤木博士」
冬月の出した結論にゲンドウが一言加え、リツコに退出を促す。
はい・・・赤木博士は納得のいかぬ顔をしたまま応え、暗い部屋を出ていった。
「さて・・・碇、これからどうするつもりだ?この分だとレイの正体も知られていると見ていいだろう」
冬月は赤木博士が退出したのを確認した後、顔を向けぬままゲンドウに言葉を振った。
あくまで普段通りの口調だ・・・しかし、目は全く笑っていない。先のリツコ以上に怜悧な光を放っている。
「連中が襲撃しているのは、第3種とE計画極秘実験施設だ。
連中が老人達の計画を知っており、ゼーレに敵対しているのは間違い無い・・・恐らくはこちらの事情もある程度は知っているだろう」
「裏で接触する気か!?」
「連中もその手の施設の情報は喉から手が出るほど欲しいはずだ・・・
それに・・・補完計画絡みの実験を潰すことは、ある程度の時間稼ぎになる」
「・・・しかし、どうやってコンタクトを取るつもりだ?心当たりはあるのか?」
「・・・・・冬月先生・・・これを・・・」
ゲンドウは冬月に一枚の紙を渡す。
「これは・・・・・・!!」
それを見るや、冬月は息を呑みゲンドウを振り向く。信じられないというように。
その冬月の反応にゲンドウはニヤリと口元を歪めた。
「どうやら、前の侵入の際、時限式のプログラムを残して行ったようです・・・」
「あぁ・・・さっきのアレか・・・まさか、死人から呼び出されるとはな・・・亡霊と云うのも、あながち嘘ではないか・・・で、どうするんだ?碇」
何処か感慨深げに虚空を見つめる冬月。ゲンドウは・・・・・・
「無論・・・」
先の言葉は闇の向こうに消えていった。
冬月が手にしている一枚の書類。
それには日時と場所、そして簡潔な一言と共に送り主の署名があった。
15年前の約束を
葛城ハヤト
其は亡霊からの招待状・・・。
「・・・・・・アタシは・・・死んだの?」
俯きながら搾り出された小さな声に、『アスカ』はゆっくりとかぶりを振った。
「使徒・・・倒されたの?、誰に・・・・・・まさかファースト!?」
「それも間違い・・・・・・使徒を倒したのは弐号機よ、暴走した・・・・・・ね」
急に語気が荒くなる少女を優しく宥める。
「暴走・・・・・・?」
「やっぱり分からない?・・・・・・心配してるわよ?、ママが・・・・・・」
「なんで!?、どうしてママが関係あるの!?」
思いもよらぬ人名。幼い少女の心に突き刺さる古い楔。その名は少女の精神は再び加熱させる。
『アスカ』は黙し、少女を見つめている。
少女の詰め寄り伸ばされた両腕は『アスカ』の両肩を捕え、その身体を力任せに揺さぶった。
感情に衝き動かされている少女の心の冷静な部分が自問する。
即ち、何故自分は今、こんなにも無防備なのか・・・と、
母の葬儀の日に誓い、頑なに守り、培ってきた心の防波堤は、今はその役割を果たしていない。
「ねぇ・・・答えてよ・・・・・・なんで・・・・・・なんで・・・・・・・・・」
俯き、何も喋らない『アスカ』を揺さぶりつづけながら、少女は問い掛け続ける。
声の端を涙で震わせながら・・・
「御免なさい・・・・自分で気付いてね・・・・・アスカちゃん・・・・・・」
急速にその姿が薄れ消えてゆく。
「あ・・・・・・」
寂しげなその言葉を残して、『アスカ』は闇に溶け消えた。
同時に、少女の意識も薄れてゆく・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ブラックアウト。
日付が変わり、『今日の戦い』が『昨日の戦い』になって間もなく・・・・
空には僅かに欠け始めた満月が昇り、暖かな光で彼女とその白い部屋を照らしていた。
月光に浮かび上がるその純白の肌は、その大部分が包帯に覆われて痛々しい。
開け放たれた窓から入り込む夏の夜風は、真っ白なカーテンと、窓際にぽつりと立った少女の蒼い前髪を優しく撫でつける。
彼女の、その包帯に覆われていない見開かれた真紅の片目は、まばらに明かりの点いた寂しい町並みと、遠くに無数に走っている『傷痕』をはっきりと捕えていた。
その鉄面皮とも云える硬い表情からは、怒りも、悲しみも、何もかも、一切の感情を読み取る事は出来ない。
真っ白な病院の寝巻きが彼女のほっそりとした肢体を包んでいた。
真っ白な部屋に佇む、真っ白な少女。
窓辺から洩れ入る月明かり。
見る者が居れば、誰しもが幻想的と評すだろう非日常的な光景が、そこに在った。
ここは第三新東京のほぼ中心に位置する総合病院。無論、ネルフ傘下なのは云うまでもない。
幸運にも、先の戦いの被害を受ける事は無かった・・・尤も、戦闘区域である市の東側以外は、ほぼ無傷と云っても良いのだが・・・。
しかし、二匹の獣に暴れられまくった東側は軒並み壊滅状態である。それこそ、無事な建造物を見つけるほうが難しいぐらいにだ。
蒼き髪と真紅の瞳を併せ持ち、その鉄面皮を月光に照らされる少女の名は綾波レイ。
およそ二ヶ月ほど前、その起動実験で突如暴走し、操縦者を病院送りにして凍結された、悪名高きエヴァンゲリオン零号機の専属パイロット・・・そして、世界で一番初めの適格者、ファーストチルドレン。
戦闘中はネルフ本部で待機(とは言え、零号機凍結中に加え彼女自身がかなりの重傷を負っている為、実際には医務室で眠っていた)していた彼女だが、戦闘終了と共に、再びこ の真っ白で清潔で、無機質な部屋で療養を余儀なくされた。
たまに・・・ほんの僅かな時間浮かび上がっては、直ぐに沈んでゆく濁った意識。
起きたら起きたで、麻酔や鎮痛剤の副作用である頭痛や倦怠感に悲鳴を上げる肉体。
その日の深夜、おぼろげな綾波レイの意識は何かを感じ、久方ぶりに完全に覚醒していた。不思議と、身体は不調を訴えなかった。
その時感じた僅かな違和感・・・何かの羽ばたきだっただろうか?
いや・・・・・・それは耳で・・・五感で感じたのではない・・・・・・身体の奥底で・・・魂で何かを感じ取った。
・・・何者かの去来を・・・
その気配、その存在は・・・隣りの部屋から感じられる。
何故こんなにも・・・気になるのだろう・・・己を虚ろに感じるのだろう・・・
・・・・・・ワタシニハ、ナニモナイモノ・・・・・・
原初の記録が囁き掛ける・・・・・・・・・『彼の者は同胞だ』と・・・。
「この感情は・・・・・・何?」
初めて感じた、初めて認識できた感情の揺らぎ。
本能の訴えを感じるも理解できぬまま。
その唇から洩れた問に応える者は無く。
蒼き髪の少女、綾波レイは窓辺に佇んでいた。
ただ、静かに。
to be continued
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