そこは、不毛の地。

 地図上で云えば、アメリカの中原である場所だ。

 もっとも、セカンドインパクトによる地軸の歪み―――に伴った大地震によって、交通網と呼べるそれは既に失われて久しい。元からの乾燥した風土と、極めて農耕には向かない赤い大地とあわせて、インパクト後、衰弱の一途をはかる米国の中でもとりわけ、ポッカリと人の居ない真空地帯をつくっていた。

 その大地は、今では乾燥し、ヒビ割れた岩と、朽ちた樹木、そして崩れ、打ち捨てられた廃屋がポツポツと点在するのみだ。地平の果てまで続く広大な大地に走る一本の道路は悉くが寸断され、本来の役割を果たしていない。


 空には満月、地には見渡す限りの土の原。
  
 赤い大地は月光に照らされ、不思議な光沢を放っている。 

 その最中に無数に点在する、干からびてヒビの入った巨大な岩。

 その一つに腰掛けた男が一人。



 男が着ている、動きやすさを重視した簡素な綿の上下は、旅の埃にまみれ、その端々は擦り切れていた。
 伸ばしっぱなしの黒髪は日に焼けてボサボサ。それを無造作に首でくくっている。
 背はかなりの長身だろう。だが、今は身を出来るだけ小さく縮め、寒気に無言に耐えている。

 細身ながらもがっしりとした体格、薄汚れた外見からはその年齢を判断するのは難しいが、20代の半ば程だろうか。しかし彼を最も特徴付けているのは、その眼だった。
 色は黒だが、その深みは底の見えない深海のよう。子供の純粋さと、老賢人の英知が同居したような、不思議な眼だった。まるで、誰も知らない高みを捉えているような。あるいは、高みから下界を見下ろす仙人のような。


 青年は日が暮れる前からその場に一人、あぐらをかいて、ただ待っていた。月が中天にかかっても、なお。
 満月から溢れる月光を一身に浴びながら、皮と布で出来た水筒を静かに、少しづつ煽る。中身は度の強い酒だろう。
 平原の昼夜は極めて寒暖の差が激しい。昼間は蜃気楼に景色が歪む程に、赤茶けた大地は熱せられる。夜はその逆だ。身を凍らせる程の寒気を紛らわすには、酒の一つも必要となる。

「よお・・・・・・久しぶりだな、ご同類」

 アルコールの所為か、とろんとした眼と何処か浮ついた口調で。
 一瞬前までは何も無かった背後の空間に向けて言を吐く。

「んー・・・・、大体15年ぶり・・・・・・かなぁ?」
 青年の背後に突然現れたソレは、清々しい顔で清廉な夜気を胸いっぱいに吸い込む。

 ソレの青い髪は風になびき、赤い瞳は月光を反射して妖しく輝いていた。



NEON GENESIS EVANGERION
ANOTHR ONE
〜ヒトが人である為に〜
第6章
子供達





 ぷしゅう・・・


 圧縮された空気が吐き出される。
 張り詰めた緊張感までも抜け落ちそうな、軽い音。


「たっだいまぁ・・・」


 投げやりで面倒くさげで、けだるげで。でも、ほんの僅かな安らぎを含んだ少女の”ただいま”が、無人のリビングに響く。
 どさり・・・と、白く細い肩に下げたスポーツバッグを無造作に玄関に落とす。
 少女は目を閉じ、肺の中に長らく溜まり溜まった空気を、複雑な感情を交じえて吐き出した。


 ふぅ――――――。


 複雑な何かを僅かに含む淀んだ空気を全て吐き出し、室内の空気を思い切り吸い込む。
 それは決して清浄ではないが、少女の五感に染み渡り、何事にも変え難い落ち着きをもたらした。


 そう・・・・・・この家に帰るのは、もう三日ぶりだろうか。


 たった三日と云うか、三日もと云うか―――それは人それぞれであろうが、区別すべきはその三日間の密度だろう。
 病院という限定された味気も無い空間。栄養価を優先した味気も無い病院食。
 それらは人並み以上に活動的で、刺激を求める年頃の少女にとっては・・・耐え難いものに違いない。


 部屋一面に散らかった数週間前の週刊誌。封が切られたインスタント食品のプラスチックトレイ。”EBICHU”と銘打たれた缶ビールの空き缶が多数・・・いや、そこいらじゅうに転がっている。通常、ゴミに分類されるだろう様々な物品で乱雑な散らかりを見せるリビングを、少女、アスカは溜息混じりに通り抜ける。

「ったく・・・・・・ミサトも”一応”保護者なんだから、掃除ぐらいしろってのよ・・・・・・」

 こめかみを引き攣らせながら悪態を吐く。
 アスカと同じ居候である、温泉ペンギンのペンペンが彼専用の業務用冷蔵庫からのっそりと、力なく這い出して、円らな瞳を潤ませながらアスカに食べ物をねだった。どうやら、主人は暫く帰ってないらしい。恐らくは、使徒戦直後に着替えをとりに帰って、今日まで3日間NERVにカンヅメなのだろう。玄関に突っ込まれたままの新聞紙の日付と、ペンペンの衰え振りから推測した。

 ペンペンが這い出してきた冷蔵庫とはまた別の、幾分かこじんまりとした普通の家庭用冷蔵庫から、何か餌になるようなものを拝借しようとし―――開けてすぐさまバタンと閉めた。怒りと呆れが半々に混じった、微妙な表情で面を上げる。そして湧きあがる後悔の念。ペンギンの主人がビール以外の備蓄をする筈が無い事を冷蔵庫を空けた瞬間思い出し、その事を全く失念していた自分に対するやり場の無い怒りが込み上げる。
 文明に毒された野性にも、近くから発散される怒気に僅かながらに感じるものがあったのか、ペンペンは酷く怯えてねぐらへと一目散に逃げていった。


 リビングの先、”開けるな!!”と張り紙が張られた襖をがらりと無造作に開け、アスカは自分の部屋のベッドの上にスポーツバッグを放り投げる。
 洋服ダンスから着替えの下着とタンクトップ、ホットパンツを取り出すと、之までの不機嫌さを棚に上げ、軽快な鼻歌混じりにバスルームへ向かう。


 ―――ふと、目に止まった電話機に足を止め、白く細い指先で留守録ボタンを押した。
『着信ハ、二件デス』
 無機質な機会音声が決まりの文句と着信時刻を読み上げる。

『アスカ? 私よ、ヒカリ。貴女の事だから心配はしてないけど・・・』

 心配はしていないと云う言葉を吐く少女の声には、切々とした不安が込められていた。人生経験の少ないアスカにも、それは容易く読み取れる。相変わらずねと嘆息しながらも、アスカは硬くなった頬の筋肉が柔らかくなるのを感じていた。

 声の主は、クラスメイトの洞木ヒカリだ。アスカの、ヒカリに対する印象は転校してきたばかりのアスカに、ただ一人、良い印象を与えたイインチョウ。そして、初めての友人。

 幼いころから常に適格者、セカンドチルドレンの衣を着せられ、常に誰かの思惑と打算の内で行動を制限されていたアスカには、己を利用しようとする人間を明確に嗅ぎ取る嗅覚を持っている。

 その嗅覚が騒ぐのだ。ああ、この者は底抜けのお人よしだと。

 それこそが、アスカがヒカリを信用し、初めてトモダチとと言うポストに添えた理由。

 ――――――そして、始終アスカへの気遣いで終わった一件目が終わった。

 間を置いて、二件目が始まる。
 着信時刻はまる一日の時間を挟んだ、一件目と同じ時間。

『アスカ? 今日、学校が再開されたのー――』

 日付は昨日、録音時刻は几帳面にも前のそれとほぼ同じだ。
 律儀に電話をかけてくれるイインチョウに、アスカは柔らかに苦笑する。

『それでね、鈴原ったら一日中同じ事ばかり言うの。昨日の騒動の時、妹さんを助けてくれた人がいたらしくて―――「あの人こそ、ワシが目標とするオトコやっ!!」って―――』

 熱の入ったヒカリの口舌に、細い肩を小さく落とす。

 冷蔵庫の陰から小さく様子を伺うペンギンに微笑み、アスカは云う。

「大丈夫よ、シャワーを浴びたら、何か用意してあげるから――――」

 自分でも驚くほど、柔らかな声がでた。
 壁掛け時計を一瞥する。律儀なヒカリは、きっと今日も電話をかけてくるだろう。おそらく、昨日と同じ時間に。その時までには、まだ少し時間がある。その間にシャワーを浴びてサッパリして、夕飯と一緒にペンペンの餌を買って来よう―――アスカは考え、ふと気づく。

 やっぱり―――軽い――――――ココロが――――――。



 ここは第三新東京の郊外の高級マンション、コンフォート13。
 その6階、306号室。
 少女が帰った部屋の契約者は葛城ミサト。
 そしてその扶養者たる少女の名は、惣流アスカ・ラングレー。


 第3使徒戦に端を発した検査入院を終えて、彼女は本日、ようやく退院の運びとなったのだった。






 時を同じくして。

 ファーストチルドレン・綾波レイもまた、セカンドチルドレンと同様、帰途についていた。

 荷物と言える荷物もなく、何時もの市立第一中学の制服にその身を包む。
 未だ首から吊り下げられた片腕のギプスは傍目には痛々しいが、少女自身それを気にしている様子は無い。


 市の、凡そ中央に位置する病院を基点に、惣流アスカが帰ったコンフォート13とは正反対の方角へ少女は一人、黙々と歩む。


 途中、破壊の爪跡が生々しい閑散とした街並みを通り過ぎ、
 途中、黄のテープによって封鎖された広い焼け跡の脇を抜け、


 少女は一人、脇目もふらずに黙々と歩む。







 ――――――ふと、足が止まった。


 水から上がった小動物のように、細く小さな体躯が震える 。ぶるりと。


 見開かれる真紅の双眸。


 この感覚には――――――そう、覚えがある。


 胸の奥が、疼く。
 痛みではない、不快感でもない。ただ、何処かこそばゆい懐かしさが込み上げる。
 そして、 頭の中で誰かが囁き、誘う。
 足が自然と、”そちら”へ向く 。


 角を曲がり、ビルの間の路地裏を通り抜ける。
 始めは歩いていたのが早足になり、早足は次第に小走りになる。まるで、何かにせかされている様に。

 その奥のT字路では、右へ一瞥、左へ一瞥。何も無い、ただ道が続いているだけだ。だが、悩む素振りすらなく右へと曲がる。
 吊り下げられた片腕の所為か、少女の動作はいささかながらアンバランスだ。だが、己の身体を騙す術に長けた少女には、何ら問題は存在しない。 

 そして、薄暗い路地を抜けたところで視界は開ける。
 そこは破壊の中心地。
 かつての大通りは大きな大きな破壊の爪痕を残している。ビルというビル、建物という建物はその大半が倒壊し、人が住める物を見つける方が難しい程だ。
 少女は内なる声の命ずるままにキョロキョロと、顔を右へ左へと向け、探す。


 少女の瞳は不安と焦燥、そして僅かな期待に忙しなく揺れている。


 数ヶ月の入院を終えたばかりの病み上がりの体と体力は、少女が望む多少の運動にも答えかねる程に疲弊していた。
 肺は常に酸素を求め続け、細い肩は絶えず小さく上下していた。額には無数の小さな汗の玉。
 だが、自分の身体など二の次と、ぐるりと辺りを見渡して――――――その真紅の双眸は、ある一点を釘づけにされた。


 ――――――――――――あれだ。


 寂しく廃れたコンクリートの灰色世界で、その一角だけは明瞭な色を見せていた。
 少女からは僅かに遠い、巨人達の大破壊と出所不明の猛火から辛うじて免れた数少ない廃ビルの一つ。


 その黒く煤けたビルで、中と外とを慌しく行き来するのは、白い長袖のYシャツを着た少年だ。この常夏の最中において、普段は涼しげだろう、その白のYシャツも、今は滝のように流れ出る汗でジットリと湿らせている。着崩し、腕を巻くり上げでもすれば、多少は楽になるのだろうが、少年は頑ななまでにキッチリとシャツを着こなしていた。

 今、少年は使用済みの書類や割れたガラス片・・・その他、高価そうな食器に抽象的過ぎて素人目には何が描かれているのか理解し難い絵画、真中から二つに割れた何かの大会のトロフィーまで、様々な物で溢れたダンボール箱を次々と運び出している。

 慌しげな少年の様子を、今時、何処に売っているのかすら分からない”はたき”を持ったポニーテールの少女が一階のガラスのついていない窓枠にもたれて、楽しげに眺め、はやしたてていた。
 たまに、少年が発する批難の声に、渋々と”はたき”を窓枠に、壁に、カバーを外した電灯へと向けるが、凡そ掃除の役にはたっていないであろうと云う手の抜きようだ。少年が建物の中に消えると鼻歌交じりにそこらかしこを漁り回して、埃を撒き散らし、粗大ゴミを生産し続けている。そして再び出てきた少年にお小言を食らうのだ。

 もう一人、入り口付近では鳶色の髪の美しい女性が少年が運び出したダンボールを物色し、使える物とそうでない物とを判別していた。
 長い髪をアップにし、清潔そうな真白いほっかむりの中にいれている。下がり気味の福々しい細い目とゆっくりと落ち着いた動作は、あちらこちらを行き来する少年とは対象的に実にのんびりとしたものだ。
 しばしば強制的に暇を装うポニーテールの少女が窓からにょっきりと半身を乗り出し話し掛けるが、その度に幸せそうな笑みをこぼれさせながら談笑している。

 彼女達は誰なのだろう・・・家族だろうか・・・そんな考えが脳裏をよぎり、己の思考に小さな驚きを覚える。

 騒々しい掃除を行う少年少女と、それを見守る女性。
 それは騒がしくも暖かい家族の団欒を少女に見せる。

 少女が騒ぎ、少年が咎め、女性が見守る。
 少年がビルの中へと消え、少女と女性のお喋りが始まり、ゴミとガラクタを抱えて再び現れた少年に咎められる。そのサイクルが、何度も何度も繰り返される。ただ、堆く積まれてゆくる粗大ゴミの山と、徐々に傾いてゆく太陽が時間の流れを示している。

 それを、青い髪の少女離れた日陰から見つめていた。ずっと、ずっと。










 何度目になるだろう。ビルの中に少年が消えて、少女が女性に忙しない口を向ける。ふと、女性がくるりと首を巡らして――――――。
 ――――――その女性と、目が合った。

 唯一人で何をする事無く佇む綾波レイに、女性は不審げな視線を向ける事無く、にこりと優しげに微笑んだ。









「そろそろ、休憩にしませんか?」

 丁度ダンボールを運んできていた少年に女性は声をかけた。「さんせ〜い」と、ポニーテールの少女が女性の案に賛同する。
 少年はガラクタのつまったダンボールを足元にどさりと落とし、流れ落ちる汗を裾で拭いながら 、全く汗をかいていない少女を怨めしげにジロリと見据える。だが、少女はケロリと、その視線をものともしない。猫のような視線を少年に返してきた。
 深いため息を一つ。肩を落とし、うな垂れる少年の姿は敗者のそれだ。少女の確信犯じみた笑みは勝利者のそれ。
「じゃ、中の人達を呼んできますね・・・・・・」
 労働による疲労とはまた別の、やたらと疲れた空気をつれて、少年は薄暗いビルの中へと消えて行く。
 薄暗いビル内部に消えていく、小さいとも大きいとも云えない10代の少年の背中は、歳不相応な哀愁を漂わせていた。


 その、少年と少女のやり取りをニコニコと見守っていた女性が、再びコチラを――――――綾波レイを向く。


 鳶色の髪の女性は優しげな眼差しと笑みをレイに向けて、「こっちにいらっしゃい」とばかりにちょいちょいと手招きをする。


 何をすることもなく、ただ、無表情に眺めていた少女の顔に、初めて困惑の色が混じり、広る。


 少女―――綾波レイは、動かない。
 只々、何時もの鉄面皮、無言の沈黙を守っている。


 女性はそんな少女を優しく見据えて、落ち着いたクリーム色のロングスカートを引きずるように、てくてくと、ゆっくりとした足取りで綾波レイに歩み寄る。
 そしてレイの目の前でちょこんと腰を落とすと、下から覗き込むようにして再びにこり。形の良い唇を開く。


「もしお暇でしたら、お茶でもご一緒しませんか?」





 人気のない路地裏から遠巻きに、あるいは、人ごみにまぎれて近くから。ネルフがセカンドチルドレンと呼称し、保護している少女の動向を観察するのが彼等の任務だった。
 少女を基点に配置されたネルフ保安部の護衛達は、対人戦のプロである彼等にとってはおそまつ極まりないものであり、その裏をかくのは容易な仕事だった。
 そしてその仕事は、あの非現実なバケモノ達の宴の前までは完璧だった。

 そう、完璧”だった”のだ。


 彼は今、逃げている。

 密に連絡を取り合っていた仲間は、次々と消息を絶っていった。
 一人一人、その存在自体が初めから無かったかのように、忽然と。

 オ前デ最後ダ―――。

 人ごみの中でも、その声は明瞭に聞き取れた。彼だけに。

 そして、プロとしての矜持も、之までの経験も、組織への忠誠も、何もかもを投げ出して、今、逃げている。
 人のモノでは絶対に無い、圧倒的なまでに純粋で強大な殺意に、ただただ恐怖して。恐怖に負けて。


 彼は今、逃げている。


 顔を恐怖に引き攣らせ、裏路地のゴミ箱を押し倒しながら、一心不乱に、当ても無く。
 こぼれた生ゴミを突付くカラスどもの嘶きが鬱陶しい。

 ハァ・・・ハァ・・・ハァ・・・・・・・・・ハァ・・・

 破裂しそうな心臓を騙し、萎える足腰を引きずるように、常に背後に怯えながら。
 上からは彼を見つめるカラスどもの無数の目。その羽ばたきが耳に五月蝿い。

 ハァ・・ハァ・・・ハァ・・・ハァ・・ハァ・・・ハァ・・・ハァ・・・

 誰も、自分を尾行する気配は無い。最初から。だが、最大限の殺意は体に、恐怖は脳裏に刻み付けられ、消えようともしない。 

 何十度目になるだろう、足を止めて、背後を伺う。
 それは、まだ自分は生きている。自分だけは生き残って見せるという逃亡者の儀式だ。

 ひと時の安心を得る事に成功した彼は再び逃亡を再開しようと前を向き―――へたり込んだ。

 背後へ注意が反れた一瞬の間に、忽然と現れた存在がソコに在る。

 ゆったりとした白装束と、やや長めな鳶色の髪。ナリは人間のそれだが、その隙間から覗く目は血のように赤く、放たれ満ちるのはバケモノのそれ。

 嗚呼―――。

 死の覚悟など、要らない。する必要も無い。
 その存在と対峙した瞬間、男の心は、魂は、躊躇い無く死を選んでいたからだ。

 だが、心は死ねど、彼のその網膜は、肉体が終焉を迎えるまでの過程を克明に投影する。


 ゆっくりと向かってくる白装束のバケモノ。

 男の目の前で立ち止まった。ヒトガタをとるその片手がゆっくりと頭上に掲げられ、手のひらの先の空間が歪む。
 そして忽然と現れる一振りの刀。

「死ネ」

 低くも高い、感情の篭らぬ響きと共に、ソレは凄まじい勢いで男の頭蓋を叩き割った。


 白い影は暫くその場に立ち尽くし、絶望の表情のまま頭を割られた男の骸に冷ややかな目を向ける。

「――――――下らん」

 ばさり―――。

 白いバケモノは漆黒の羽ばたきと共に去り――――――。


 今はもう、有機物のカタマリと化した死骸目掛けて、ひっそりと息を潜めていたカラスどもは一斉に、降下を始めた。





 薄暗闇に慣れさせられた目には、日向の世界は眩しく、痛い。

「・・・・・・おや?」

 ようやく焦点の定まった視界に飛び込んできた光景。
 それがあまりに、己の想像の範疇の外の出来事であったために、ポカンと、青年の口から間の抜けた声がこぼれた。
 ぼす・・・と、唐突に立ち止まった青年の背中に、先程誰かを呼びにビルの中に消えていった少年の鼻先が突っ込む。とすると、この青年が、少年が呼びにいっていた人物だろう。
 長くも無く、短くも無く、丁寧にカットされた柔らかな黒髪に落ち着いた物腰。とりたてて容姿には特徴的なパーツはないが、黒瞳の深さは誰よりも深い。

「どうしたんです、先生」

 少年は鼻頭をさすりながら、にょきりと背中越しの青年の眼前を窺った。

「あ・・・・・・」

 少年の口からもまた、間の抜けた声が洩れる。いや、あるいは感嘆の声か。

 粗大ゴミだったビーチパラソルでつくられた日陰の中、少年が持ち出したソファーにちょこんと腰掛けた、何処か所在なげな綾波レイが、同性の二人に質問攻めにされていた。
 いや、実際に質問しているのはポニーテールの少女一人なのだが、その分少女はおしゃべりだった。女性は二人の少女を穏やかに見つめている。

 周囲の閑散としたビル群が織り成す荒廃した世界も、一部の躍起な人々による復興の慌しさもそこには無く。ただ穏やかでゆったりとした時間の流れがそこにある。

「・・・・・・あら? お疲れさまです」

 鳶色の髪の女性が青年に気付き、労いの言葉をかける。

「ええ・・・お疲れさまです」と青年は穏やかに返すと、背後の少年に首だけ向けて「ショウ君、君は下の二人を呼んで来てくれるかな? 休憩にしよう」と、もちかけた。

 ショウ―――この場で唯一人の少年は「分かりました」と応えると、彼等が下りてきた階段に隣接する階段を下りてゆく。


 カツンカツンと、青年はレイに脚を向けた。くたびれ気味な皮の靴歌が鳴る度に、黒い灰混じりの埃が小さく舞う。
 青年はレイの目の前でちょこんと膝を折り、困惑に俯いていた少女の顔を下から優しい表情で覗きこんだ。そして、挨拶の言葉を吐く。

「さて、始めまして。僕の名前は――――――シン」

 僅かに考えるような素振りの後、男にしては形の良い口を開き、改めて名を紡ぐ。「六文儀―――シン」

 この時の青年、六文儀シンの瞳に、綾波レイは一瞬で呑まれた。
 優しさと厳しさ、決意と絶望、あらゆる矛盾、その全てを飲み込む全き闇の双眸。
 それは、研磨に研磨を重ねながらも、甘さを残した黒曜石。

「そっちの女の子はケイ、反対側の女の人はミコトさん。自己紹介は・・・してもらった?」

 レイはこくりと頷く。そのリアクションに、シンは子供のような純粋な笑みを返した。

「それは良かった。あ・・・今さっき下に行った男の子はショウ。今はあと二人居るんだけど――――――っと」

 少年、ショウが階段を下りた先の扉から顔を覗かせ、青年、シンに声をかける。

「先生――っ。下のお二人は結構だそうです―――」

「ああ―――それじゃあ―――何か、適当に飲み物を貰って来てくれるかな? 5人分―――」

「はいー――」と、歯切れの良い声を残して再び引っ込む少年の頭。

「あなた達・・・」

 唐突に、綾波レイの口から洩れる声。その声を少女を知る者達が聞けば、普段の彼女の立ちふるまいとあまりのギャップに、己の耳を疑うだろう。
 それほどまでに、普段は怜悧な少女の声は、震えている。不安と、ホンの僅かな期待を込めて。

「あなた達――――――何?」

 少女の胸の衝動は、未だ納まる兆候すら見せない。









「そうだね―――」

 目を閉じて思案する。「君の、味方だよ」
 レイの紅瞳が細められた。「ネルフの関係者?」

「いやー――」

 遥か上空、やや傾きかけた太陽が未だその衰えを見せない中、、ゆっくりと時間は流れる。

「だけど、之から暫くは厄介になるかもしれない」

「・・・・・・みかた・・・?」

「私の弟だったら、多分同胞って、言うんじゃないかな? あのコ、何だかこの国の古風な部分にかぶれちゃってるから」

 横合いから飛び色の髪の女性、ミコトが面白そうに口を挟む。

「・・・同胞・・・・・・」

 それっきり、綾波レイは黙り込む。俯きながらも見開かれたままの真紅の瞳には、僅かな動揺の影が忍んでいる。

「まあ、分からなければ今はそれで良いよ。早ければ、明日にでも分かるかも知れないしね」

 之でその話題は終わりだよと、にっこりと微笑んだ青年はようやく腰を上げ、近くに転がっていた、ブラウン管の割れた古風なテレビに腰掛ける。
 そして、まるで頃合を見計らっていたかの様に地下から現れる少年、ショウ。
 退屈そうに黙っていたポニーテールの少女、ケイが「おっそーい」と悪態をつく。

 ショウの手にはバスケット。卵、サラダ、そしてベーコンの簡単なサンドイッチが少量と、霜の滴る幾つかのジュースが6本。
「今朝のあまり物、ついでに持っていけだってさ」
 ショウの後ろには新しい顔。
「上、手伝えって云われた・・・」
 眠そうな青い瞳をこすりながら、その少女は白く細い指先でバスケットの中の缶ジュースを一本摘み上げた。

 綾波レイが、いや、この都市の殆どの人間が知る由も無い事だが、その少女は先の戦闘の際に裏で動いていた者の一人だ。年の頃は綾波レイと同じ程。ハイティーンには決して満たないと見てとれる。だが、その幼い皮の下に蠢く本性は、闇を疾り、死を紡ぐ暗殺者。小さく鋭い人間凶器―――。
 だが、今の夢遊病者のようなぼぉ・・・とした雰囲気と、頭に残る派手な寝癖はその本来の姿とは凡そ正反対のものだろう。
 長く美しい金髪と合わさって、本来ならば人形のような・・・という言葉がしっくりとくるその容姿も、寝起きらしい今はその髪型と合わさってユーモラスとしか形容し難い。

「あいっかわらず血圧低いね・・・」

 呆れた顔で呟くケイ。ミコトがあらあらと、何処からとも無く取り出した櫛を持って少女の背後に回り、髪を梳く。猫のように、少女は目を閉じて気持ちよさそうに髪を任せた。起きたばかりであろうに、下手をすればそのまま再び眠ってしまいそうな位に少女の目元は緩んでいる。

「ショウ、セラ、彼女は―――」
 彼女達がリーダーと呼んでいる青年が二人に向けて綾波レイを紹介する。ショウは「宜しく」と堅実に返し、金髪の少女、セラは目を瞑ったまま「ん・・・」と、曖昧に返した。


 その小さな団欒を綾波レイはただ静かに、冷ややかに眺めていた―――。





 視界の遥か先に消えてゆく、制服姿のレイの背中を眺めながら―――。

 時は夕刻、そろそろ日も暮れるだろう。

 少年少女は早々に再開した反対区画のデパートまで調度品を買いに行っている。女性は今は、ビルの内装を行っているだろう。先程は出てこなかったが、老人とその孫のような少女は、今も地下で黙々と己の作業をしているのが目に浮かぶ。

『六文儀―――シンだと? とっさにしては、巧い嘘を吐く』

「ここではその名で通すつもりです。皆にも云っておかないといけませんね」

 頭の中にに直接木霊するその『声』に、シンは自然と肉声で返した。
 視界の中には姿はないが、きっとどこかに紅い目をした鴉が潜んでいるのだろう

『―――そんな事は、どうでもいい。俺様は、何時までこんな下らん―――胸糞悪い屠殺を続けねばならん?』

「当分―――としか云えませんね。他組織の第三進東京への介入は完全には防げませんが、抑止力は必要です」

 それは暗に、NERV保安部、諜報部への皮肉であった。現段階で、NERVのそれらは他組織にとって、障害としてすら認識されていない。鍛えなおすにしろ、使徒の進行が始まった有事に置いては、一時一秒が限りなく貴重だ。
 つまり、MAGIと、未だ機能が完全でない第三新東京の都市によるサポートがあってようやく一人前である彼等にとって、替わるモノが必要なのだ。

『俺様に、ソレになれと?』

 極めて否定的なイメージと共に、その意がシンに流れ込んでくる。

「いえ―――。 遅くとも、レオンさんが戻ってくるまでで構いませんよ」

『何故、俺様がそんな面倒な真似をせねばならんのだ。人間の相手など人間にさせればいいだろう』

「この前の戦闘のような混乱の最中でならば他にも適任はいます。ですが、平時において・・・訓練を受けた複数を相手に、存在を知らせないまま事を運べるのは貴方とレオンさんしかいないんですよ」

 チ・・・。不承不承といった承諾の意が返ってきた。

『――――――次の獲物がいた。また後でな、主よ』

 先刻、青年達から別れた綾波レイを尾行する者達の存在を嗅ぎ取ったらしい。
 なんだかんだ不満を云うが、その仕事は洗練された狩人のそれだ。無駄を省き、極めて効率的に獲物を狩る。

「僕としては、ムラのあるレオンさんよりも貴方の方が適任だと思いますがね」

『適任か否かでは無い、刃向かう意思すら持ち得ぬ狗を相手するのは、この上なくつまらない。 願わくば―――次の連中は狗で無ければ良いのだがな』

 間髪いれずに帰ってきた、予想通りのその応えに、青年は肩を落として苦笑した。

 そして、胸を張って背伸びをし、溜まった黒い空気を全て吐き出し、新たな空気を肺へと導く事で、頭の中を切り替えた。




「さて・・・・・・夕飯、何にしようかなぁ・・・・・・」





 音も無くソレは現れ、そして青年の前に進み出る。

「今の名前はアズマだっけ?」

 屈託もない笑顔で、それは無邪気に聞いてくる。

「ああ、この肉体の、持ち主の名を頂いた」

 閉じていた目蓋を細く開ける。
 その先、満月を背後に、一人の少女がいた。
 空色の髪、血を連想させる紅の双眸。この辺りの人間では決してない、青年、アズマと同じく掘りの浅い、東洋系の顔立ちは極めて繊細に整っている。
 だが、注目すべきはその衣装だろう。平原の夜を過ごすには、常夏の環境下で着用されるべき市立第一中学校の制服は余りにも心もとない。そ

 綾波レイ。広大な海原を隔てた島国の要塞都市の落とし子。
 目の前の存在は遠く離れた綾波レイと、全く同一の容姿を持っている。

 だが、目の前の存在の、その中身は少女本人とは全くの別物だ。綾波レイがもち得ない豊かな表情や、動作の節々に現れる無駄なオーバーアクションに類する表層的な差異ではなく、もっともっと内面的な。
 そして、それには存在感と言うものがまるで存在しない。目の前にいても意識して見なければ、気が付かない。目の前の少女はそんなあやふやな存在だった。

「とうとう始まった・・・・・・か? お前がその身体を得たって事は・・・」

「ええ・・・やっと始まるのよ。愚かな人間達の戦争と、『彼』等の馬鹿馬鹿しい挑戦がね」

 辛辣な物言いを笑顔で口にする少女にアズマは苦笑して、水筒の中の最後の一口を飲み下した。

「俺達は蚊帳の外だがな」

 つまらなさげに悪態を付くアズマ。

「まあね。それとも、この3年で干渉したくなった?」

「3年も一緒に馬鹿してりゃあ、情の一つも移るさ。だが、それとこれとはまた別問題だよ、夜の使徒。
ま、イズミやミコト程”ずれて”いれば問題はないんだろうが、俺やお前みたいな『こちら側』の存在になっちまうと、『向こう側』の人間達への直接干渉は律を乱す事になりかねん。俺はまだ、お前の姉貴に消されたかないよ」

 アズマの独白に曖昧な笑みを返しながら、少女は『あっ!』と呟く。

「『彼』が名前を決めたみたいよ? 六文儀・・・・・・シン?」

「それが『彼』の舞台名か・・・」

 身体を廻るアルコールを愉しむように、岩の上に五体を投げ出すアズマはこれから起こるだろう未来を夢想する。その姿は実に楽しげで無邪気だ。そんな彼を見つめる少女もまた、彼と同じ表情で問いかける。

「で、もう一人の主役はどうしてるの?」

「お前の云うもう一人の主役は、まだ主役『候補』に過ぎないよ。今頃は、向こうのシェラフん中でオネンネ中だ・・・・・・起こすなよ?」

「分かってるわよ。まだ彼の出番じゃないし、舞台は彼に選ばせてあげないとね?」

「舞台がアイツを必要とする時。その時まで、目一杯、奴には見せておくつもりだよ」

「何を?」

 その問いを待っていたと言う顔で、アズマは笑う。ニヤリと。


「世界を、だ」


 血のざわめきに呼応して赤輝く両の眼。
 不適に歪ませた唇を開き、何処かの誰かに挑戦するように物申す。

「委員会だかネルフだかしらんが、誰にもアイツを利用する事などできんよ。例え、それがシンの坊主でも、だ。
過去に囚われ続け、現在を我が物顔で食い物にし。未来を見失った阿呆どもの好きにはさせないさ―――」

 そして、その赤い視線を少女からずらし―――。




「なぁ――――――」




 視界の端の、消えかけた焚き火へと向ける。
 その薄暗い明かりに照らされたシェラフの中で夢を見ているだろう、少年へと。


「――――――碇―――シンジよ―――」


to be continued




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